52hz のうた

少し前にある小説を読んだ。人生に疲弊してしまった主人公が田舎の家で細々と暮らていると、ある虐待されているらしき少年と出会い、その主人公と少年が互いに生きるべき場所を見つける、といった物語だった。この物語で重要な意味を持つのが ”52ヘルツのクジラ” なのだ。


これは有名な話だと思うが、クジラは歌を歌うらしい。長くて1時間以上も歌うのだという。彼らは15〜25hzの周波数でコミュニケーションをとり、彼らの大きな声は数千キロ先にいるクジラにも届くのだ。でも世界に唯一、他のクジラと違う周波数で歌うクジラがいるらしい。そのクジラは他のものたちとは全く違う周波数の52hzで歌うことから、52呼ばれ、1980年代から存在が確認されている。彼は発声する周波数が他のクジラとは違いすぎるために、仲間のクジラに出会うことができず、ひとりで海を彷徨い続けていることから、”世界で最も孤独なクジラ”と呼ばれているのだ。暗い海のなかでひとり、誰にも届くことのない歌を何十年も歌い続ける孤独は、それはきっと寂しいなんて言葉で易々と片付けられるようなものではないとわたしは思う。いつ誰に届くかなんて希望、私が52だったらとっくに捨てているはずだ。

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私の大好きな曲の一つにWhalien 52という曲がある。というのも、わたしがあの小説を手にしたのはこの曲が大好きだったから、ただそれだけだ。この曲もこの”世界で最も孤独なクジラ” になぞらえて歌詞が書かれている。

여긴 너무 깜깜하고

ここはとても暗くて


온통 다른 말을 하는 다른 고래들 뿐인데

みんな違う言葉を話す 他のクジラばかりだ

이렇게 또 한 번 불러봐

こうしてもう一度歌ってみる

대답 없는 이 노래가 내일에 닿을 때까지

返事のないこの歌が 明日に届くときまで

 

わたしもそうだ。

わたしもここではこのクジラと同じだ。わたしは他の言葉を話すひとたちに囲まれたこの場所で、ずっとわたしの声を、私の52hzの声を、見つけてくれる誰か、を探していた。

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今更だが、これはわたしの自己満足で、ただのひとりごとで、わたしのなかで収まりきらなくなって溢れ出てしまいそうな声の一部を文字で繋げたようなものだから、今ここまで読んでくれた私の稚拙な はなしに興味のないほとんどのひとはスクロールする指を今すぐ止めたほうがいい。読んでくれようとする誰かの時間を無駄にしてあげたくて書いているわけではないのだから。限られた時間を大切にして欲しい、だから意味の無いだだのこの文字の羅列を読み進めることはあまり勧められない。

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留学をしに異国の地、トロントに来てもう1年が経とうとしている。1年も海外で暮らしていれば、それはもう英語での日常生活に支障なんてないだろうと言うひともいれば、1年だったらまだまだのびしろだらけだろうと言うひともいるだろう。考え方なんてひとそれぞれだし、実際にわたしは1年が経ってもまだ不安定なままだけど、言い訳を考えようなんて今はもうしない。まだまだ自分が至らないことだらけなことは自覚しているつもりだし、わたしはわたしなりに頑張っている。知らない誰かの価値観なんて押し付けがましいものに耳を傾けているのもただの時間の浪費にすぎないと思っている。

 

先から言ってるように時間は大切だ。

時間はひとをいい方向にも悪い方向にも変えてしまうことができる。1年という時間を自由に使えるとして、ひとが外見も、内面も、考え方も、夢や目標も何一つとして変わらないままでいられたとしたら、それは逆にすごいことではないのだろうか。1年という時間はいい方向にも悪い方向にも、ひとを変えてしまうには十分すぎる長さだと思う。それなのに、私はこの1年間、ずっと平行移動をしていただけだったように感じる。逆にすごい。何も成長していないいないことに危機感を覚えている。今日のわたしも、1年ほど前の自分と変わらず、幼いままで、周りのひとたちが早足で駆け上がっていくのを横目に、どうでもいいというフリをしながら、ジリジリと自分のなかで、彼らを羨み、妬む感情に自分すらも気づかないように、そして彼らにも気づかれないように、と考えて唇を噛み締めているだけなのかもしれない。わたしの1年は確実に進んでいたはずなのに、わたしはまだスタートが見える距離をゆらゆら歩いていて、もうわたしを追い越して走って行ったひとたちの足跡なんてとうに消えてしまっているものだから、追いつこうと頑張って走ってみても、もう足跡がないから道に迷ってしまったんだ。そもそもわたしは地上より、水中のほうがいい。泳ぐのは得意だけど、走るのは苦手だ。汗をかくのなんて真っ平だ。そういえば、私に向かって魚に似てるね、と言ってきたあの子は元気にしているだろうか。もうどうせならわたしも海の中を自由に泳げる魚になってしまえたら、幾らか楽になれるかな。そうしたら世界を周り、そのうちに旅の中のきれいなおはなしだけをしてあげられるひとに出会えるのかな。

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話が随分脱線してしまった。

あるひとがわたしに「そっちでの生活はすごくお洒落に見えるね。」と言ってくれたことがあった。それもそのはずだろう。だって、そう見えるようにしているのだから。本当は何もない、つまらない生活を必死で隠したくて、まるで充実した生活をしているように見せているだけだ。実際の生活なんて、誰かが羨んでくれるほど輝いてなんかいない。毎日真っ暗になった部屋に帰って来ては、ひとり暗い部屋のなかで腕を頼りなさげに宙で動かして電気のスイッチを探すことを寂しく感じる日々のどこに輝かしさを感じられるだろうか。おかえり、の声が聞こえるだけで、どれだけ安心感を覚えるかなんて1年前までは考えたことすらなかったのに、ひとりになった途端、寂しくてもうここまででいいんじゃないだろうか、もう諦めてしまってはいけないのだろうか、なんて自分のこれまでの選択の全てを否定してしまいそうになる。


こんなこと絶対に誰にも言えないが、わたしのほうが、羨ましかった。友達同士で楽しそうにしているひとたちを画面越しで見るのと、今の何もない自分がどうしようもなく恥ずかしくて、近くに信頼に足る誰か、がいるひとと自分を比べては、自分はなんでここにいるのだろうか、と過去の自分の選択を恨めしく思ったりもした。そうは思ってしまったとしても、この誰にでもできるわけじゃない、今のたくさんのひとに支えられた生活を無碍にしたいわけじゃない。そうじゃない。だけど、それでも、寂しいなんて感情は過去の全ての決断や努力を滲ませてしまえるほどに強いのだ。自分の選択に後悔はないし、もし時間を戻して選択しなおせるのだとしても、わたしは同じ決断をするだろう。でも、それは意志の強さや、責任、義務とは全く別のもので、わたし自身のための選択で、わたしがやりたいことで、他の誰かに負けたくないと、負けてはいられないというプライドでもあるのだ。

 

それでもそんな寂しさを埋めるための何か、をずっと探していたような気がする。楽しくなれば、悲しさも、寂しさも忘れて、今の生活をもっと充実させられるんじゃないかと思った。いい考えだと思った。寂しさを楽しさで埋めてしまえば、そんな寂しさなんてそれはもう、初めから無かったことのようになる、そう期待した。

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できなかった。そうじゃなかった。忘れちゃいけないんだ。いや、忘れたくないと思った。他のものに置き換えようとしていいわけがない。だって、その寂しさは何にも変えられない大切なものだから。代替品なんてそこにはなくて、悲しさも寂しさも何かに置き換えて、もしその代替品を楽しんでしまったら、まるでそれは私が元の生活、今まで大切にしてきたものの存在をなくても大丈夫なのだと証明しているようで怖くなった。そう考えるのは、自分の問題に前向きになろうとしていない、自分の出来の悪さから目を背けるための言い訳とも捉えられるし、実際に私自身もそう考えなくもない節はある。でも、寂しさも悲しさも他の何かで埋めて忘れてしまったら、今までそこにいてくれた大切なものたちがポツポツと全て泡のように消えてなくなってしまったら、と考えるとそっちのほうがずっと怖くて仕方がなかった。


現実逃避かもしれないが、わたしは今のこの環境で成長しきれていない自分を守るための言い訳をするために、自分から52hzのクジラでいようとしているだけなのだろうか。

 

私にも何かしらの目標や夢、それこそ、何も持たずして生まれたものの、困っているひとを助けたいと願い、スーパーヒーローを目指してヴィランに立ち向かう少年や、幼い頃に結婚を誓った少女の呪いを解呪するために呪いと戦った少年、高さが勝負のバレーボールの世界で、小さいながらも世界を目指して飛び続ける少年のような、大きな目標があったのならわたしは他のみんなと今も競える距離を走っていたのだろうか。寂しさなんて感じることのないほどに、今のこの生活を楽しんでいたのだろうか。でも ”if” には終わりがない。"もし”は現実ではないし、過ぎてしまったことはもう正すことは簡単じゃない。でも、スーパーヒーローを目指した少年や、特級術師になった少年、最強の囮と呼ばれた少年、のように今から大きな目標も見つけることなら、わたしにもできるのだろうか。今から走り出してもまだ、みんなに追いつけるのだろうか。いや、みんなのことは遠過ぎて見えないけど、走っていれば、走り続けるのをやめなければ、いつかはわたしも、彼らとわたしの52ヘルツが届く場所で出会えるのだろうか。わたしは寂しさを他の何か、で代用することはできなかった。でも、それでもいい。もう無理に忘れてしまおうなんて考えない。届かない声でも走り続けていればきっといつかは誰かに届いてくれるはずだろう。寂しいも楽しいも同じ52hz で歌えるはずだと、信じている。


きっと他のどこか遠い場所で誰かが同じ52hzで歌っているのなら、見つけてあげたい。ちゃんとわたしにも届いているから。

 

Feb 5, 2022